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卒業生の皆様へ

今日は多くの高校の卒業式ですね。

様々な想いを胸に抱き、新たな道へと一歩足を進める卒業生の皆様。
ご卒業おめでとうございます。

僕が高校を卒業したのは今から12年前。



もうあの日から一周したのですね。



僕は中学生だった頃、そして高校生だった頃の自分が嫌いでなりません。


本当に嫌な奴で、一体どれだけの人たちを傷つけてしまったのか。
思い出すたびに罪悪感で心臓が握りつぶされそうになり、思わず立っていられず座り込んでしまいます。


あれから12年。

僕は変わったのでしょうか。


いいや、変わっていないのかもしれません。

相変わらず一秒前の自分も嫌いです。

日々繰り返し襲ってくる罪悪感も強くなる一方です。



そんな僕でも、実は今幸せです。
理由は特にありませんが、幸せなことは確かです。


だから卒業生のみなさん。

今幸せな人も、幸せじゃない人も、必ず幸せになれます。


月並みな言葉ですが、勇気と希望を胸に抱き、どうかたくましく一歩踏み出してください。




僕も頑張りますので。

トワイライトコリアン

9月26日日曜日から昨日まで2泊3日で韓国に行ってきた。

ちなみに25日は大学のジャズ研究会仲間の結婚披露宴に出席させていただき、久しぶりの仲間たちと楽しんだ。
花嫁さんはとてもきれいだった。和製キャメロンディアスだった。

話は韓国に戻り、今回の僕の韓国旅行の目的は、サハリン留学時代大変お世話になった朝鮮系ロシア人のおじいちゃんに会いに行くことだ。俺がホームステイしていた家族の祖父だ。

なぜサハリンのおじいちゃんが韓国にいるのかというと、これには長い歴史がある。

まずおじいちゃんは朝鮮人である。僕は日本人という後ろめたさもあり、おじいちゃん自身に詳しく尋ねたことはないが、知人から聞いた話では1940年代まだ朝鮮半島が日本の植民地であったころ、半強制的に当時の日本領サハリン(樺太)での労働力として送られた父とともにおじいちゃんはその地を踏んだ。樺太ではまさに過酷を極める幼少そして青春時代を歩んだ。「労働」この二文字がおじいちゃんの若かりし人生の出来事であったと言う。

おじいちゃんの少年時代に第二次世界大戦は終戦を迎え、大日本帝国は無条件降伏をした。かつての日本領南樺太はソ連に奪還され、当時そこに住んでいた日本人の多くは本国へと帰還した。
しかし、おじいちゃんのような朝鮮人の方々の多くはサハリンに残された。
おじいちゃんは幼少時代には朝鮮語を学び、その後日本語、ソ連支配後はロシア語での教育を強いられた。国籍はソ連そしてロシアへと移った。おじいちゃんは3ヶ国語を自由に操り大そう重宝されたし、現在でもおじいちゃんと同じ世代の現役の方々は、ロシアをはじめ韓国そして日本でも欠かせない意思疎通戦力となっている。
負の歴史が生んだ能力であったにもかかわらず、その能力を年老いてからも発揮し続け、3カ国間において多くの人間たちを繋いだ彼らの功績は、大いに称賛に値するものだと僕は思う。

おじいちゃんは長年サハリンの白浦(ヴズモーリェ)という小さな漁村で鉄道職員として働き、朝鮮人であるという逆境にも耐えながら、すさまじき勤勉さでサハリン残留朝鮮人からだけでなく多くのロシア人そして日本人同志からも信頼を集めた。

そして今から11年前、俺はおじいちゃんのその娘にあたる、サハリン在留朝鮮人2世の家庭に1年間ホームスティしていたのだ。その日から僕とおじいちゃん夫妻の交際がはじまった。

おじいちゃんは自分に対しても他人に対しても大変厳しい人であった。若かりし頃は、それこそ迂闊に近寄れないほど他人を寄せ付けないオーラが体中からあふれていたらしい。おじいちゃんの実の娘と孫が言うのだから本当だろう。しかし僕らが出会ったときは、日本人である僕をまるで孫のように大切に扱ってくれた。そもそもおじいちゃんは人に優しかった。優しいからこそ厳しかったのだ。

おじいちゃんの家には数えきれない書籍があり、それこそ一部屋が本のみで埋まっていた。おじいちゃんはたぐいまれなる本の虫であった。建築の本を読み、独学で二階建ての木造一軒家を建てたほどだ。
その本棚には朝鮮語、日本語、ロシア語が入り乱れ、小説から詩集、さらには鉄道や電気、水道などの専門書、そして日本の友人が送ってくれたNHKの紅白歌合戦のビデオが大量にそして几帳面に陳列されていた。

おじいちゃんは日本の演歌をこよなく愛し、お正月には必ず皆でそのビデオを鑑賞した。
おじいちゃんとおばあちゃんが昔の紅白の美空ひばりの歌声を聞き「昔はラジオに耳をこすりつけ、聞き取りにくい歌詞をノートに書き写して皆で歌ったもんだ」と涙を流していたシーンが僕の頭に今でもはっきりと残っている。
余談だが、ロシアで初めて映画「ジュラシックパーク」がテレビ放送されたとき、おばあちゃんはテレビを見ながら「恐竜はまだいるのかい?!」と、かわいい悲鳴を上げていたのを覚えている。11年前のサハリンの田舎は、まさにそんな感じだった。

おじいちゃんとおばあちゃんの金婚式に出席させていただいた時には、ウサギのスープと嘘をつかれ犬のスープを食わされ「なに食わせるんだこのやろ〜!」と叫びそうになったが、おじいちゃんの「でもうまいだろ?美味いと思ったくせに文句言うのか?!これで1年風邪ひかないぞ」の一言で、僕は「・・・おかわりください」と、結局その犬スープを3杯食った。おじいちゃんと親戚一同はそんな僕を見てケラケラ笑っていた。
今でも僕の30年の人生の中であの犬スープより美味しいスープを食べたことはない。
そしてその年は風邪をひかなかった。

その後僕がサハリンを去った後も親交は続き、おじいちゃん夫妻が北海道に遊びに来た際にはみんなで再開を喜んだ。

そして今からたしか5年前、サハリンのおじいちゃんの家が火事で全焼した。原因はコンセントからの漏電だと言われているが、僕は違うと思っている。
おじいちゃんとおばあちゃんは着の身着のまま、丁度実家に帰ってきていた三女と一緒に家を飛び出し、浜風にあおられ勢いよく燃え盛る家を見ながら「パジャール!!(※ロシア語で「火事だ!」)」と叫び続けていたそうだ。
家には逃げ遅れたグラントゥという凶暴だが忠実な愛犬が残されており、焼死した。

その家はおじいちゃんと息子たちが手作りで建てた渾身の一軒家だった。僕が遊びに行った時も常に増築改築を続けており、おじいちゃんは暇さえあれば地下の作業場でノコを引いていた。その作業場には至る所にネズミ取りが仕掛けられており、おじいちゃんは罠にかかったねずみのしっぽをつかんで孫たちに見せ逃げ回る子供たちを脅かしていた。

家の近くの山肌からは天然の山水がこぼれおち、僕らはその水を直接山肌に口を付けて飲んだ。なんと美味しかったことか。飲み水は全てそこから汲んでいた。真冬ともなれば気温は−30度にもなり、水汲み係の子供たちはふるえながらチョロチョロと流れ出る山水をバケツに入れていた。

春には山で採れる山菜を朝鮮料理にして食べた。夏には川を上る鮭を棒でぶん殴り気絶させ捕獲し、たき火で焼いて韓国の醤油をかけて食った。
秋には山で採れた木の実やキノコをふんだんに使い、おばあちゃん特性のピャンセーという肉まんのようなものを子供達で競い合うように食べた。あまりにもおいしくて、おばあちゃんはそのピャンセーを駅前の路上で売ってあるいた。いつもあっという間に売り切れた。冬には凍りついた海面に穴を開け、糸を垂らしタラバガニやコマイを釣って、その場でゆでて食べた。
そして僕はおじいちゃんの晩酌(といっても毎食後だが)につきあい、当時まだ慣れていなかったウォッカを飲み、外の畑で吐いて肥やしにした。

おじいちゃんの家には、春夏秋冬いつも家族たちが遊びに来て夏休みなどを1〜2週間過ごした。そして僕もいつも同行していた。特にお正月ともなれば親族一同はもちろん、近所の人たち、昔の同僚などなど、ロシア人や朝鮮人がごった返し、おじいちゃんへお正月のあいさつに訪れてはウォッカを飲み歌い踊っていた。人望の熱いタフなおじちゃんだった。

そんな思い出の詰まったおじいちゃんの家が燃えてしまったのだ。

おばあちゃんはその日以来ショックで顔面神経が麻痺し顔が左上側へひしゃげてしまい、そしておじいちゃんは痴ほう症を発症した。

痴ほう症の原因が火事かどうかは今となっては判断できないが、一つの大きなスイッチになったことは間違いないだろう。

火事で家が焼けてしまってからの一年間はユジノサハリンスクの娘の家に住み、居場所のない肩身の狭い生活を送ったのだと思う。そして今から4年前に、ついに母国韓国へと移住することを決意した。

ここで“韓国への移住”について話したい。

そもそもおじいちゃんのようなサハリン残留朝鮮人は数万人樺太に住んでいた。日本人が引き揚げた後も、朝鮮にも日本にも引き取られることなく、なるがままにソ連人とならざるを得なかった。
つまり彼らは、一部の例外を除いて取り残されたのである。

彼ら1世の多くはサハリンで結婚し、子を持ち、職を持ち、朝鮮文化とロシア文化のはざまで生きて死んでいっている。2世3世はすでにロシア化しており、3世ともなれば当然のように朝鮮語は話せない。ロシア人と結婚する者も少なくない。

そして、韓国のソウルから地下鉄で1時間半ほどにある安山という町にコヒャンマオリ(故郷村)という、集合住宅地域ができた。
この地域はサハリン残留朝鮮人専用の集合住宅であり、彼らだけが住んでいる。建物の建設費を日本政府が持ち、そこでの生活費を韓国政府が負担するという形で実現したと、おばあちゃんは説明してくれた。
僕は詳しく知りたいと思いネットで調べたが、どこにもそれに関する記事は存在しないようだ。
しかし、事実存在する。僕は2日前にそのコヒャンマオリに行ってきたのだ。

前置きが長くなったが、ここからはこれらのおじいちゃんの歴史を踏まえ、今回の僕の韓国旅行の思い出を語りたい。

9月26日日曜日、前日の披露宴の疲れを体の深いところで引きずったまま、僕は韓国インチョン空港行きの新千歳空港14:00発大韓航空KE766便に乗り込んだ。
飛行時間は約3時間。意外と長いなという印象だった。機内では「のだめカンタービレ最終楽章後篇」を備え付けの小さなモニターで鑑賞し不覚にも感動し、読み始めたばかりの小説「永遠の零」を読んだ。この小説は神風特攻隊のお話なのだが、読み始めて数ページで完全にひこまれた。

インチョン空港に着いたのは午後の5時。空港にはHISの韓国人スタッフが出迎えに来ており、非道なほど愛想の悪い悪魔みたいな顔をした女性添乗員に連れられ、最初の挨拶以外ほとんど言葉を交わすことなく、長安洞の安ホテルに到着した。

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ホテルは薄暗く、ホテル地下にある「セクシー・ローマ・バー」という得体のしれないスペースからは、気が狂ったような韓国人の歌声が聞こえており、その声は7階の僕の部屋まで朝まで響き続けた。

ホテルに着いたのは18時過ぎ。お腹もすいていたので、観光ガイドブックも何も買ってこなかった僕は雰囲気だけでレストランを探し始めた。
そして街を散策して思ったが、韓国という国は日本とは違う。何が違うのか。まず風営法や食品衛生法が違うのだろう。韓国ドラマや韓国アーティストを見ていると、日本よりも可憐なイメージを持ちがちだが、ちょっとメイン通りから外れると、そこには浮浪者が道端に寝そべり、豚の頭部が路上で売られ、くわえタバコでテンプラのようなものを揚げている屋台が並び、道路沿いには分別されていないゴミが捨てられ、野良犬やカラスが食い漁っていた。
これが悪いと言っているわけでは全くなく、むしろ僕個人的には好きなのだが、なんというか、僕の想像する韓国とはその点で合致しなかったわけだ。

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僕は比較的お客さんのたくさんいる焼き肉店に入った。当然韓国語で「アニョハシムニカ」と挨拶されるが、こっちは「エー」が精一杯。店員さんはいろいろ韓国語で問いかけてくるが、もちろん僕はさっぱり理解できず英語で「すんません。韓国語わかりません」と答えると、彼もへたくそな英語で「OKOKOK」と席へ案内してくれた。しかも絶対に話しかけてきそうなおじさん集団との相席。

店員さんは性懲りもなく韓国語で話しかけてくる。おそらく「おめー何食うんだ?」と聞いているに違いないと思い、僕は壁に描かれていたお肉を指差し「これをワンと、このスープをワンとあのご飯をワン」と人差し指を立てながら説明した。すると店員さんは少し考えた後「NONONO」といい、なぜか手の親指と人差し指でOKサインを作り笑顔を見せ、よくわからないうちにオーダーは終了した。ビールだけは英語で通じた。

まず店の裏からカンカンと燃え上がる炭が運ばれ目の前の穴にはめられ、天井から延びる換気管がその炭の真上に設置された。次にナムルが4種類運ばれてきた。キムチと大根を千切りにした甘めのキムチと、たんなる生の玉ねぎのスライスと、甘しょっぱい醤油ダレで漬けこまれた玉ねぎの雑切りだ。
ビールと一緒にまずはキムチをパクリ。うん、おいしくない。
こう見えて僕はキムチにはうるさい。
たとえ本場韓国だろうとも、なめたキムチは絶対に評価しない。日本同様韓国も異常に熱い夏であったこともあったのか限度を超えて発酵が進んでおり、酸っぱいだけでコクが見当たらない。大根キムチも美味しくない。

いよいよ肉が運ばれてきた。犬にでも食わすかのようにお皿にてんこ盛りで、どこの部位かわからない大量の肉。しょーがない食うかと、鉄網で焼いて食った。悔しいが美味い。なんだこの肉。まさか犬じゃないだろうな。いいやおそらく豚だろう。僕は豚の首の肉ではないかと踏んでいる。かなり美味い。しかし量が多すぎる。しかも味付け肉だから飽きる。僕は味を変えようと甘しょっぱい醤油タレに付け込まれた玉ねぎにその肉を投下して食べた。よし美味い。

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すると店員さんが韓国語で「さびす」といって、ちょっとした卵スープを持ってきてくれた。僕は「いいや頼んでないっす」とジェスチャーすると、彼は「サビス」。あ〜サービスね。僕はここで初めて韓国語で「カムサムニダ」を発した。
店内ではテレビが流れており、タイミングが悪いことに、日本対韓国のサッカーの速報みたいなものが放送されていた。店内の至る所から「イルボン・・」という会話が聞こえてきて、なにか日本のことを言っているのだろうと感じた。幸運なことにその試合は韓国がPKで日本に勝ったらしく、僕は一命を取り留めた(笑。

店を出てホテルに向かう途中のコンビニで韓国産のビール(HITEだったっけなぁ)を3本買い、部屋に戻ってシャワーを浴び、「永遠の零」の続きを読みながらビールを飲んだ。途中何度かテレビを付け、韓国の歌番組やお笑い番組を見たが、韓国人ってのは歌がうまいなぁと感心し、お笑い番組はなにをしゃべっているかわからないのは当然だが、雰囲気が日本のお笑い番組とそっくりだった。どちらかがどちらかをパクッたとしか言いようがない似かただった。まゆ毛が濃くて前髪が重たいイケメン二人が鉄棒にぶら下がり、ただひたすら足で相手を蹴り落とすという過激なゲームには笑えた。

翌朝8時半に目が覚め、シャワーを浴びた後、いよいよ冒頭で話したおじいちゃんとおばあちゃんが住む安山市へと向かった。

実は韓国に入ってから僕はおばあちゃんと連絡が取れないでいた。何度もおばあちゃんの家に電話をかけたが誰も出ない。そして考えてみると、僕が知っているのはおばあちゃんの住んでいる場所は“安山駅から遠くない”という情報だけであり、“コヒャンマオリ”という地域名をそのときはまだ知らなかった。つまり、おばあちゃんと連絡が取れなければ、安山駅にはたどり着けるものの、おばあちゃんとおじいちゃんには会えないということになる。
これにはかなり焦った。なぜ事前に正式な住所を聞いていなかったのだろうと、準備の悪い自分を呪った。
何度も公衆電話から電話した。さらに言えば、僕は携帯電話を海外用にローミングするのを忘れ、僕の携帯電話は何の役にも立たない単なる携帯デジタルアドレス帳と化した。
僕は何度も「やばい」を繰り返し、とりあえずなんとかなると思いこみ安山市に向かうことにした。

地下鉄5番線の長安洞駅から南大門歴史なんちゃら駅で4番線に乗り換え、そこからひたすら1時間半以上地下鉄に揺られ続け、ウトウトしかけたころで安山駅に到着。

この安山駅がまた全然ソウルとは違う。なんというか社会主義的集団住宅建造物が目立ち、よく知るロシアの駅前と空気がそっくりなのである。公衆電話のそばにあった下水口からは糞便の臭気が漂い、駅目の前の広場では泥酔したおじさんが死んだように寝転がり、インド系のおにいさんがキンキラキンの携帯電話を大声で売り歩き、駅に付属しているショッピングモールは、愛想の悪いお姉さま店員たちの巣だった。「これも韓国かぁ」と感心した。
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さて。どうするか。

僕はとりあえず、ありったけの祈りを込めて公衆電話にテレホンカードを差し込み改めておばあちゃんに電話した。「トルルルルル・・・トルルルル・・・ヨボセヨ」。やった!おばあちゃんの声だ!
「僕です!陽介です!おばあちゃんですか?」
「あ〜ようすけサンハンゴ、フチェラー、テレフォンどうしてしなかったのぉ〜?」と、韓国語と日本語とロシア語が混ざった独特の言語でおばあちゃんは聞いてきた。
僕は何度も電話をかけたがおばあちゃんがでなかったことを伝えようとしたが面倒なので「すみません」とだけ述べ、なによりもまず安山駅からおばあちゃんの家までの行き方を尋ねた。するとおばあちゃんは「私もネズナーユ(※ロシア語で「知らない」)。たぶんバスがあるから誰かに“コヒャンマオル”って言えば連れてってくれるよ」などと過酷なこと言い出す。
僕は「え?なんですか?コ・・コヒャ・・コヒャン・・?」。するとおばあちゃんは「コヒャンマオルだって“コヒャンマオル”」。聞きなれない外国語というのは電話の場合さらに聞き取りにくくくなるもんで、僕は何度も「おばあちゃんもう一回!コヒャ・・コヒャンマオ?」と。するとおばあちゃんは「そうだよ」というから、僕は「わかりました。なんとかやってみます」と電話を切った。僕は“コヒャンマオル”という難解な音を忘れないように「コヒャンマオルコヒャンマオルコヒャンマオル・・・」と口ずさみながらバス停に接近していった。そこでバスから降りてきた60代の優しそうな女性に「コヒャンマオル!」とたずねると、その女性は「え?なんだって?何言ってんだおめー(※僕の想像訳)」。僕はめげずに知っている韓国語を駆使し「チョヌン、バス、コヒャンマオル!」と詰め寄った。女性は「コッヒャンマルッソヨ?!」みたいなこと言うもんだから、僕は“コヒャンマオル”という大切な音を忘れてしまって、「コヒャ・・コヒャンマ・・マ・・マ・・」。そして女性は去ってしまった。

僕はもう一度おばあちゃんに地名を確認しようと思い公衆電話に向かった。しかし何度かけてもおばあちゃんが出ない。それから1時間僕は路頭に迷った挙句、このままではせっかくおじいちゃんに会いに韓国まで来たのに会えないで帰ることになるという危機感を覚え、ここは恥を捨てて徹底的に道行く人に尋ね続けようと決心した。

まずは駅構内にあるダンキンドーナツの青年に。「Can you speak English?」彼は「a little」と答えたので、僕は「how can I get to コヒャ・・コ・・コヒャンマン!?」と、正しい音である“コヒャンマオル”はすでに原型をとどめてないなかったが強気でたずねた。彼はあからさまに困った顔をして「sorry I don’t konw」と答えた。僕はさらにいろいろと粘ったが、結局何も得られなかった。その後とりあえず食べたくもないドーナツ1個と飲みたくもないアメリカンコーヒーを注文し一服した。少しでも売り上げに貢献すればもう少し協力的になってくれることを期待したが、青年は僕と目を合わせようともしなかった。気持ちはわかるよ。

それから何人かに聞き続けたが答えはなし。
いよいよダメかとあきらめかけたその時、明らかに英語が得意そうなベッカムヘアーの背の高いビジネスマンが外でタバコを吸っていた。僕は最後のチャンスと思い、ありったけの英語力で「サハリンから帰ってきた年老いた韓国人たちが住んでいる場所を知っているか?」とまくしたてると、彼は「Oh Yes I  know」。さらに彼は「コヒャンマオルだろ?教会の近くだろ?」と言ってきたので、僕は「教会の近くかどうかしらんけど、コヒャンマオルだよ!」と喜んだ。ヒッチハイクの旅をしていたころの猿岩石ぐらい喜んだとおもう。
彼は親切にもタクシー運転手に「彼をコヒャンマオルまで送ってあげて」と言ってくれて、最後は両手でがっしりと握手をして別れた。

タクシーで走ること15分ぐらい。運転手がやたらテンション高く「コヒャンマオル!着いたで!」的なことを言って下ろしくれた。
さて、夢のコヒャンマオルに着いたはいいけど、この数ある集合住宅からどうやっておばあちゃんを探そうか・・・。とりあえずダメもとでおばあちゃんに電話をしてみた。すると拍子抜けするぐらいあっけなくおばあちゃんは電話に出た。僕は「なんで電話に出なかったんですか?!」とちょっとキレ気味に聞くと、なんとおばあちゃんは安山駅で僕と電話で話した後、僕を出迎えようと到着するのをずーっと外で待っていてくれたらしい。2時間待っても僕が現れないのでいよいよ変だと思い家に戻ったところで僕から電話がかかってきたというわけだ。おばあちゃんありがとう、そしてごめんなさい。それにしても到着のためのヒントが“コヒャンマオル”だけは難しすぎるよ(笑。

電話を切り、おばあちゃんの言われた通り104番住宅の前に行くと、76歳になるおばあちゃんが「よすけさん〜!」と走って駆け寄ってきた。僕も「バブシュカ〜!(※ロシア語で「おばあちゃん」)」と叫びながら青春映画よろしく熱いハグを交わした。おばあちゃんはもう泣いていた。「よくきたね〜よくきたね〜」と小刻みに震えていた。

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おばあちゃんの家は7階にあり、エレベーターで上がった。エレベーター内のポスターなどの張り紙は全て韓国語とロシア語で書かれていた。おばあちゃんの部屋はこじんまりとした2LDKで、ベランダにはたくさんの植物が育てられていた。
おばあちゃんと会うのは何年振りだろう。だいぶ痩せこけ、顔のしわも増えたが、先程走って寄ってきたことが証明するように、足腰は問題ないようだ。それどころか、最近近所の太極拳大会で3位だか4位に入賞したと言って自慢していた。

おばあちゃんは韓国のおばあちゃんらしく「まずはクーシャイ(※ロシア語で「食べなさい」)」といって、キムチと、ワラビの油いためと、アサリの塩辛と、ゴマの葉の南蛮漬けと白い御飯を出してくれた。どれもサハリン時代常におばあちゃんの家の食卓に並んでいたオカズだ。そして僕は生れて初めての体験をした。それはおばあちゃんの作ったワラビの油いためを食べた瞬間、突然涙のようなものが鼻の奥を登ってきたのだ。僕は抵抗しようのない少量の涙に襲われた。味覚という記憶装置があの頃の思い出を瞬間的に呼び寄せたのかな。

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食事の後は紅茶を飲みプリャーンニキ(※ロシアの砂糖まんじゅうのようなもの)を食べ、二人でタクシーに乗り込み、おじいちゃんの入院する病院へと向かった。

病院のタクシーの中で僕はあることに気付いた。おばあちゃんの顔の引きつりが治っているのだ。おばあちゃんは「韓国の病院で手術して治してもらったんだ。2回手術して、まぶたも切って。手術代は日本の政府が払ってくれたみたいだよ。だって私一銭も払ってないよ」と、日本政府と韓国の医療に非常に感謝していた。はたして手術代は本当に日本政府が出しているんだろうか?確かめようがなかったので、それについては追求しなかった。

その病院は安山老人病院といい、要するに進行した痴呆症などで自宅では介護することが難しい老人が入院している病院だ。そんな病院の4階におじいちゃんのベッドはあった。
僕はなぜかすごく緊張し、エレベータ前の広場に集まって歌をうたっている多くの老人たちの中におじいちゃんがいるのではと思い、見つけたい気持ち半分、見つけたくない気持ち半分で辺りをキョロキョロと見回した。しかしおじいちゃんは見当たらない。すると僕の後ろの方からおばあちゃんが「ようすけさんこっち」と呼んだ。そこには、ほかの老人たちの輪には加わらず、一人ポツンと廊下の突き当たりの日の刺す窓の前でカサカサと手をこすり合わせ続けている老人がいた。おじいちゃんだった。僕は最初おじいちゃんだとわからなかった。それほどまでに痩せていた。痩せてやせて手足はまるで牛蒡のように細くなり、顔の輪郭もほぼ原型を失っていた。さらに、最近病院内を一人で徘徊し転倒した時に付けた顔や手足のあざが痛々しく、そして何よりも、勝手に立ち上がって徘徊しないように車いすと帯で縛りつけられている哀れなおじいちゃんを見たとき、僕はどうしても涙を我慢することができなかった。
僕はロシアの習慣らしくおじいちゃんに握手を求めたが、こすり合わせ続けているおじいちゃんの手には力が入り離れなかった。おばあちゃんが「じーさん!ようすけさん来たよ!」と大きな声で話しかけると、おじいちゃんは上の歯のないくしゃっとした顔で、金歯の下の歯をぐっと見せてにっこりと笑い、手をたたいて喜んだ。それは僕のことを覚えているとかじゃなくて、誰かが来たこと自体に喜んでいるのだろう。でもそれでも良かった。僕はおじいちゃんの前にしゃがみこみ、これまでお世話になった感謝の言葉を述べた。話しているうちに涙が止まらなくて、僕は途中から何も言えず、ただただおじいちゃんの細くなった腕をさすり続けた。するとおじいちゃんが手を伸ばして、僕の着ていたシャツの襟をつかんで言葉にならない音で何かを言った。その言葉はおばあちゃんにだけは聞き取れるらしく、おばあちゃんは「これと同じシャツじーさんも持ってるって言ってるよ。ばかだねぇじーさん」と教えてくれた。僕はプチンと切れるようにすごく泣いた。ポロポロと病院の廊下に僕の涙が落ちた。あの厳しく優しく読書家で聡明で3ヶ国語を自由に操ったおじいちゃんが、たった5年で言葉を忘れ、目の前にいる日本から来た見覚えのない青年のシャツをつかみ「わしもこれと同じシャツを持っている」と言ったのだ。
老いるとはなんと残酷なことだろう。

僕は日本から持ってきた日本酒のカップ酒をプレゼントした。すると看護婦さんに「お酒はお持ち帰りください」と言われ、しかたなく持ち帰りおばあちゃんの家に預かってもらうことにした。いつかおじいちゃんが退院した時飲ませてあげてと。
そのあと車いすのおじいちゃんと病院の外を散歩し、一緒に歌をうたい、もう一度最後に心から感謝の言葉を述べて、もしかしたらもう二度と会うことがないかもしれないおじいちゃんに、日本語とロシア語でさよならを言った。おじいちゃんは韓国語よりも日本語とロシア語に反応するとおばあちゃんが教えてくれたからだ。しかしおじいちゃんは僕の目を見ることはなく、遠くを眺め、点滴の跡で真っ青な痣の残る両手をこすり合わせ続けていた。

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帰りのタクシーでおばあちゃんが「私はじーさんが死んだらサハリンに帰りたい。娘も孫もいるし。ここはさびしくて。もう家で一人でいるのは嫌だ。ご飯も作りたくない」とハンカチで涙を拭いていた。そうなのだ。一番つらいのはおばあちゃんなのかもしれない。家も焼け、故郷を離れ、住んだこともない韓国の地に住み、なれない近代的な住宅に疲れ、おじいちゃんは病気になり、家ではさみしくて涙を流しているのだろう。なんという運命だろう。僕は多くのサハリンに住むサハリン残留朝鮮人と出会い別れてきたが、往々にして僕からすれば皆過酷すぎる人生を歩んでいる。

僕たちはおばあちゃんの部屋に戻り、いつものようにいらないというのにたくさんのリンゴやらお菓子やらのお土産を貰い、おばあちゃんが外に食事に行こうと誘ってくれた。僕はおばあちゃんと付き合いは長いが、それはいつもホームスティのホスト家族を挟んでのコミュニケーションであり、おばあちゃんと二人っきりで食事をしたことはなかった。
おばあちゃんは「おいしくて安いところがあるんだ。うどん一杯100円だよ」と、なんだか子供みたいに嬉しそうに案内してくれた。そこは正確にはうどんではなくジャージャー麺の専門店であり、確かに1杯1000ウォン(約100円)だった。そして格別に美味かった。日本で一度ジャージャー麺を食べたことはあったが、比べ物にならないくらい美味しさだった。
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食事中おばあちゃんは「あんた早く結婚しなさい」と何度も言ってきた。そして「なんで結婚しろって言うかわかる?結婚して子供産むのはすごく楽しいよ」とアドバイスしてくれた。さらにおばあちゃんの口からこんな言葉も出た「結婚は50対50ってことはあり得ない。どちらかがちょっと上でどちらかがちょっと下だから、でもちょっとだから結婚して子供作ってしまえば、大体いいんだよ」と。最初言っている意味がよくわからなかったけど、つまりおばあちゃんの言いたいことは、愛情の大きさのことだろう。ある程度の夫婦の愛情の差は子供の存在がかき消してくれるから心配するなということだろう。頑固で厳しい一人の旦那に尽くし続け、4人の子供を育て上げた76歳の女性の言葉だ。間違いないのだろう。

おばあちゃんは僕を地下鉄のホームまで見送ってくれた。しかもおばあちゃんは地下鉄のチケットを買わずに力ずくで改札口のバーを横へずらし、僕と一緒にホームへ進入した。僕は「おばあちゃんそんな入り方して怒られないの?」と聞くと、おばあちゃんはおどけて「頭のおかしいばぁさまは何やったってゆるされるんだ」と言って僕を笑わせた。
地下鉄に乗り込む前にもう一度ハグをした。おばあちゃんの体はまた小刻みに震えていてた。
地下鉄が出発した後も、おばあちゃんはベソをかいて手を振り続けていた。
なんという人だろう。今から11年前、突然日本から来た18歳の少年を温かく迎い入れ、かつての日本とのつらい歴史には触れず、5年ぶりに会った血の繋がっていない僕との別れに涙を流し、見えなくなるまで手を振るという行動。

僕は車両内で腫れぼったい咽喉に押し上げられる涙をこらえるのに必死だった。なんとか濃いサングラスをかけて周囲の人に見られないよう泣いた。

そして来た道と同じように2時間かけてホテルにもどり、昨晩とは違った韓国産ビールを飲んで「永遠の零」を読んで23時ごろに寝た。

翌朝は朝6時にロビーに集合だったので5時に起きた。

5時55分にロビーに降りたが、迎えの添乗員もバスの運転手もいない。10分しても誰も迎えに来ない。あれ?と思いフロントに聞いてみると、どこかへ電話をかけて、その受話器を僕に渡した。すると受話器から「スミマセン佐久間さん!ワタシ長く寝てしまて遅れましたよ!すみません!いま違うの車が行くので、乗て空港に行ってください!」。要するに寝坊したって訳か(笑。初日俺をホテルに送ってくれたときは「帰りの日は必ず朝6時に降りてきてください。もし降りてこなかったら待たないで置いていきますので。その場合タクシーで行ってもらいます。タクシー代はだいたい10000円かかりますから」とまで俺を脅しておいて、自分で寝坊&遅刻かい!

空港は退屈だったので2時間ずーっと「永遠の零」を読んでいた。いよいよ小説も終わりに近づいてきた。

飛行機では隣の席にロシア人が座った。モスクワからソウル経由で札幌に行くらしい。職業は会計士だが、日本車を買い付けに行くと言っていた。こういうことが今までにも何度かあった。なぜか隣にロシア人というシチュエーション。

離陸から1時間ぐらいで「永遠の零」を読み終えた。たくさん泣いた今回の旅だが、なんと僕は生れて初めて小説を読んで涙がポロリと流れた。
是非多くの人に読んでもらいたい小説である。

そしておじいちゃんおばあちゃんのような“残留”を背負った人たちの人生も、是非多くの人に知っていただきたいと願うのである。

石川遼と内閣総理大臣

僕は今年で30になった。

当然今年18歳になった青年もいる。

僕が予想するに、高校生男子の多くが石川遼を避けている。避けているというか、苦手としているはず。できれば彼の話題には触れたくない。家に帰ると母親が「遼くんスゴーイ」とか言いながらテレビでゴルフ見た直後に、こっちをチラッと見ようものなら、後頭部から拳銃突きつけられているような圧力を感じるに違いない。クラスの女子が「遼くんかっこいいよね〜」なんて言ってたら、なんかもう18歳の男子をやめたくなり、「今俺17歳だったら少しはましだったのに!」と嘆き、しまいにゃ学校にも行きたくなくなる。

普通の特にこれといって特技もない、いわゆる一般的な18歳の男子高校生は、遼くんと対談なんて怖くてできないと思っているはず。

僕でさえっていうとおかしいけど、石川遼とは恥ずかしくて話できそうにない。

テレビでもあまり見みかけたくない。なぜか?

彼を見ていると、あまりにも自分の幼さ、非力さ、無能さ、親への申し訳のたたなさ、自分の惨めさを、目の前で石こブン投げられたみたいに実感しちゃうんだ。彼にそんなつもりは毛頭ないことはわかってる。
彼の内面からあふれ出る優しさや誠実さを直視していると、それと比べると自分のこんなにも汚い心を、まさに内臓に手を突っ込んで心臓を抉り取りたくなる心境が湧いてくる。

もうつらくて見ていられない。

これは「18歳のころの僕と比べて」ということじゃなくて、現在30歳の僕と、現在18歳の石川遼くんを比べてそうおもう。これは結構きつい。

だから、彼は本当にすごい。

このペースで成長していけば、23歳ぐらいで内閣総理大臣になっても人間としての魅力としては全然おかしくないし、彼がこの日本という国の長っていうのは、なにかすばらしい未来が訪れそうで胸が躍る。

そんな気がしないですか?

おれ次の選挙は遼くんに清き一票入れることにする。

『日本はにかみ新党』
党首は石川遼君で、副党首は早稲田のハンカチ王子、秘書は浅田真央。
そしてこの若い三人を影で支えるのが、大橋巨泉と泉谷しげる。

目玉政策は「はにかみ手当て」。

はにかむような笑顔で、こぼれるような笑みを漏らしている人には、金一封。

そしたら日本はみんな笑顔であふれるはず!

電子カードと官僚

例えば絵を描く人がいるじゃない。

その人はもちろん自分の絵を売って金稼ぐのが生きる手段だけど、それとは別に誰かに絵の描き方とか教える。

だから僕も、仕事だけにロシア語使うのはケチくさい。
だったら、すこしでもロシアへの関心が高まるよう、日本人がロシア人を身近に感じるよう、そこまでいうとでかすぎるけど、あまりにもマイナスイメージが強いロシアという国の実生活を垣間見れるような記事を、僕訳で紹介することにした。

今日の記事は「Идея внедрения единой ёлектронной карты запутается в бюрократической сети」です。

邦題は「ロシアの統一電子カード導入というアイデアが、官僚たちに動揺を与えている」かな。

では、要点を訳します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ロシアでの統一電子カードの導入

統一電子カードを導入するというアイデア自体は正しい判断であり、かつ現代的な発想である。その電子カードには、パスポート情報、年金情報、銀行情報が保存される。理論的には、このカードによって、多くの無駄な書類だけでなく、国民と役人の無駄なやり取りが大幅に縮小される。ゲルマン(ロシアの有力思想家)はこのカード導入によって、60〜70%の公務員の削減でき、その時こそ、ロシア国家は健全にそれらの無駄を排除することができると確信している。

しかしそれを削減を実現するためには、いろいろと費やす必要がある。ゲルマンの計算だと、この統一電子カードの施行と導入には1兆5千億ルーブル(今のルーブルレートが1ルーブル3円弱だから4兆5千億円ぐらいか)かかると試算するが、サドルノフ(ロシアの大手国立銀行BTVのえらい人)は3兆ルーブル(9兆円)かかるとみている。

それ以外にも、BTV24銀行の頭取は、その電子カード自体は主な手続きは簡素化されないとも推測している。

ザドルノフさんが言いたいことは、銀行手続きが簡素化されないということではなく、要するに官僚たちの仕事が簡素化されないだろうということである。

つまりは、今までの経験からいえば、どんに手順を簡素化したとしても、最終的にサインするのはロシアの官僚だからってこと。

役人たちはその危機をよく理解しており、どんなプロジェクトでも自分たちの価値を評価させ、必要性を散らし、結局は骨抜きにされちゃうどころか、おまけに必要性が評価されちゃう(そういう意味ではザドルノフの言っていることは現実的だ)。

たとえば、ズベルバンク(ロシア貯蓄銀行)は、カードへの相続貯蓄とその書き換えを拒否している。よって、多くの年金者は、そのクラスティックカードを持ってATMに行くはずもなく、今まで通り銀行の受付に長蛇の列を作り、すべてのプラス要因は平均化されてしまう。

よって、統一電子カードは結局機能面において、簡素化されたインターフェイスとはなりえない。

言いかえれば、今までの状態の官僚的カオスにおいては、数字的結果を出すことは不可能といえる。

さらに、この電子カードを利用を望まない人間に強要することはできない。これはこのプロジェクトのシステマチックな問題である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
って記事。

ここで注目したいことは、ロシアは世界に後れをとっているとはいえないってこと。

むしろ、「結局官僚でしょ」的な諦めというか、経験からくる判断が的を得ており、日本人のそれよりも夢見がちではない。

ロシアという国家の歴史は浅いが、ロシア人としての歴史はそれほど短くない。彼らは「支配される」という状況をよく理解しており、それによる苦悩と喜びを客観的に判断することが比較的できる国民だと俺は思う。

このプラスティックカード導入にしたって、多分遅かれ早かれ導入されるだろう。とくに今のメドベェージェフ大統領下においては、非常に現実できであり、ヨーロッパ的発想とロシア的官僚主義をバランスよく持ち合わせた彼ならば、比較的平和的に実現できるのではないかと思う。

話はちょっとずれるが、俺はメドヴェージェフ大統領は、プーチンの使いっぱしりではないと評価している。

彼はすでぶある意味でプーチンを曇らせる存在感と聡明さを発揮しており、ロシアにおいても彼の支持率はプーチンのそれとほぼ同水準を維持している(これもプーチンの手腕だと言われればそれまでだが)。

僕は、ロシアという国は日本にとってかけがえのないパートナーとする必要があると考える。

しかしながら、テレビ等マスコミで取り上げられるロシアの情報といえば、プーチンが独裁的なかじを取り、そのBGMとしてゴジラのテーマソングみたいな壊滅的印象を与えるものを利用する。

これでは国民の意識が変わるわけもなく、ある意味プロパガンダだ。

事実、ロシアへの投資を行っている国の上位がヨーロッパであり、尊敬するに値するは、韓国が2位であるということ。

韓国という同じアジアでありながら、いかにこれからの自国の子孫たちが繁栄できるかという、ある意味物理的な評価をロシアに期待し、確信しているかってことだと思う。

僕は嫌いな民族などいない。

嫌いな人間などいない。

要するに、僕、あるいは僕の家族の子孫にとって、誰と手を組むべきかをじっくりと見極める以外判断基準を持ち合わせていない。

思想的にいえば、なんとも残酷で非道かもしれないが、人間はみな非道だと理解するし、その面においてみな平等だと思う。

であるならば、どうか。

僕はロシアを学ぶことをやめないことにする。

誤審と新しい試み

ワールドカップは面白いね。
普段サッカー見ない人も、ワールドカップとなるとテレビにかじりつく。

なぜか?
それはたぶん「あなたが○○人」だから。
つまり、世界中のだれもがどこかの国籍を有しており、その土地に住んでいるか住んでいたことがあるか、もしくはその国に住んでいる民族の血をひいているからだ。

たとえば僕が、文明社会からすっぽりと外れた名もない大地に生れ、偶然耳の裏にエラがあったから、広い広い海でプカプカ生活していたとすれば、ワールドカップなんておもしろくもなんともない。

そこに「海洋生活者代表チーム」が出場すれば、そりゃ熱く応援するだろうね。
「生活保護者代表チーム」なんてのがあれば、日本の30%ぐらいの人たちがヨッシャー!と燃えるわけだ。

要するにそういうこと。

話はタイトルの内容に戻り、先日のイングランドードイツの誤審について。

まーあれはゴールだった。間違いない。完全にゴールラインを超えていた。審判のミスというより、早くて見えなかった。レフェリーの動体視力では追えないほどボールの動きが早かったか、角度的に見えなかった。
要するに「見えなかった」。
これに尽きる。

それについてあーだこーだ言ってもしょーがない。
審判が人間であろうと、機械になろうと、この手の誤審ってのは確率の問題で付きまとうもんだ。

で、ネットでロシアの新聞を読んでいたら、この誤審についてなかなか冴えた記事を見つけたので、簡単に訳します。※僕の訳なのでそこらへんご理解を。


ノーヴァヤ・ガゼータより
『笛吹き人:こんな職業存在ありましぇん』
誤審−これは昔からあるもので、これからも存在する。ましてや、ワールドカップにはワールドカップを経験したことのない未熟な審判もいる。オフサイドを見誤る、ペナルティーを判断できない、決定的なゴールをカウントしない、反則していない選手を退場させる。でもこれって偶然かなぁ?

審判の悪口言ってもしょうがないから、現代の審判の本質を話そうぜ!

まず最初に言っておきたいのが、「サッカーの審判」という職業は、この世に存在しない。国際試合をさばいている29人のレフェリーのうち、イギリス人のフーアルド・ウェッブ、日本人のユーイチ・ニシムラ、スウェーデン人のマーチン・ハンソンだけが、いわゆるレフェーリー業で飯食ってる。少なくともアンケートにはそう書いてある。
じゃあそれ以外のレフェリーは?そう、さまざまな職業の代表者達だ(笑。どっかのマネージャー、教師、ビジネスマン、銀行員、法律家、経済学者・・・つまり、一週間のうち5日は指差し棒で黒板の前に立ち、あるいは家事やってる。で、休みの日だけホイッスルもってストップウォッチ握り、卵色のシャツ着て出かける。こんな人たちが、毎日詰め所でせっせと練習し、フリーキックや守りから攻撃への移行訓練に励んでいる人たち(要するにプロ選手)を裁いている。これって変じゃない?

おそらく50年前じゃこんなことも許されただろう。審判のスピードは亀並みで、緊張もなくビールッ腹プルンプルンさせてボールを追っかけた。そもそも審判というものはマイナーな役だった。当時の彼らに求められていたことは「選手の邪魔をしない」ってことぐらい。

だがしかし今日のサッカーは変貌した。まず、スピードが速くなった、そして二つ目が大事なことなのだが、いろいろな流れの結果、サッカーはビジネスと化した。つまり、サッカー選手は「プロ」となった。
そこで起きたことが、サッカー愛好家(つまり今の審判)がプロ選手を裁くという現象。

審判は試合前のすべての時間を、戦略や個々選手の癖や、ディフェンダーの汚いラフプレーの研究に割くべきか?もちろんこれらの問題はFIFAに向けられている。FIFAは、一方では母国の仕事を忘れ審判としてのプロフェッショナル追求しなさい!と言いながら、一方ではそれらを審判には強制していない。

スロバキアの有名な審判ルーボッシュ・ミシェルはこう言っている「4年に一度のワールドカップを裁くための審判を育てるには、7〜8年かかる」と。これは秘密でも何でもなく、あるクラブを裁くのと、ある国の代表チームを裁くのとでは訳が違う。なぜか?それは、その闘技場にかけた国民の威信と、応援者の数。世界で最も大きなクラブでも、国のそれとは比べ物にならない。考えても見てくれよ、韓国との試合でホイッスルを間違えたら・・・その瞬間100万の敵を作ることになる・・・これが常軌を逸した責任とストレスなのだ。もしすごく大事な大会の前だというのに君にはそれほどの経験がない、ましてや君にとって審判業が本業ではなく、副収入を得るためのものであったら。

FIFAの審判の指名方法は批判を受けている。なんのためにワールドカップの審判は世界中の大陸から抽出しなければいけないのか?イングランドやスペインの審判と、サウジアラビアの審判の質をを比べろと言うのか?ヨーロッパの審判と、アジアやアフリカのクラブの審判を比べるのはフェアじゃない。




とまーこんな感じ。

なかなか的を得ている。

審判への不満ではなくFIFAへの不満だ。

プロフェッショナルな審判を育成していないだけでなく、ワールドカップというイベントであるというだけの理由で、審判個々のレベルを度外視した、低レベルな審判の抽出方法。
FIFAがこの問題を解決していないのだから誤審があって当たり前。
もしある審判の誤審で、国を巻き込んだ問題になるようならば、50年前みたいに審判の地位をグッと下げてあげなければかわいそうではないか。

ってな話。

面白。




プロフィール

ペレヨスカ

Author:ペレヨスカ
北海道在住、昨年会社を設立し、健康食品の開発販売、外国語の翻訳通訳、カラオケボックス運営、北海道の美味しくて体にいいものを発掘など、いろんなことをやっています。
基本的に健康というものの本質を探り仕事も含め生きています。

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